一年の終わりに少し振り返ってみると、
私の関心は記譜のことや、楽譜から何を読み取るのか、ということが
多かった気がしている。
実はそれは、高校の授業で私が常に意識していることでもある。
というのも、私が指導している高校生たちは(普通科であるけど)、
西洋式の五線に書かれた楽譜を苦労なく読める人たちが結構いる。
ただ、彼らが楽譜からどのような「音」を再現するのかというと、
出てくる音を聴く限り、とても機械的に、無機質に捉えて
しまっていると感じることが多い。衝撃を覚えるほどに。
楽譜の持つ危うさ、つまり楽譜がまず平面的なイメージを与えてしまうこと、
(例えば、四分音符が4つ続けば機械的に同じ質の音を連ねてしまうとか。
実践的な立場からはその場合、同質の音が連続することの方が少ない気がする。)
そしてそれが「絶対的であると思わせてしまうところ」については
授業でしつこいくらいに話しているのだが、
実際のところ、その壁をどのように乗り越えたらよいのかは、
実践を通して学ぶしか道が無いように思う。
彼らが取り組めるレパートリーの中で、少しでもそういった事を
理解して、形にできる力をつけられたら、と教員生活を始めてからずっと
課題にしてきているのだけど、ある時から
彼らの馴染みのある楽譜から「離れる」という事を敢えてやってみている。
方法はいろいろで、コードをヒントにインプロビゼーションをやる時もあれば、
ある作品(ポップスである時もある)をアレンジする事もある。
つまり、多くの人が頼ってしまう楽譜を自分たちで作らなければならず、
しかも必ずしも記譜しなくても良いという性質のものである。
今年は私が先日のブログにも書いたように「花火譜」と向き合っていた
経緯があったので、思いきって授業でもそういった別のシステムで
記号化された「楽譜」を使用してみることにした。
題材は20世紀のハンガリーの作曲家、ジェルジ・クルタークの「遊び」
である。
対象は高校3年生の自由選択科目受講生。
五線も使用されているのでかなり楽譜っぽいけれども、
よく見ると絵のような感じでもある。
本当は注釈が付いていて、どの記号が何を意味するのか書かれているのだけれど、
授業の課題では敢えてそうした作曲者の意図は伏せ、
純粋に楽譜やタイトル(副題)などから彼らに自由に楽譜を
解釈できるようにした。
作品の長さも自由で、グループでの創作でも個人での創作でも良い。
かなり難航するかと予想したのだけど、これが意外にも(もちろん苦労しつつも)
反応が良くて、中間発表の段階でとても面白い作品が出来上がってきた。
楽譜から得る視覚的な情報から物語のようなストーリーを作ったグループ、
絵的なイメージを音にするため、ガラスのコップを集めて水を入れ、音階を作ったグループ、
ベースにエフェクターを繋いで、モチーフをループさせ、音を何重にも重ねていくという
手法を考える人、和音にこだわりとことんピアノ一台で勝負しようとする人、など。
多彩で発想も柔軟!
感動すらおぼえる。
1月の作品完成をとても楽しみにしている。
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