新しい年になった。
今年は去年よりも少しでも良い年になって欲しいと切実に思う。
年末から突然ブログをハイペースで書いているが、何となく自分の中の整理であり記録のようなものであり、また音楽に関する自分の思考を言語化する練習のような意味でもあるように感じている。
そして、少しだけSNSとの決別とまでは言わないでも、やはりSNSでは私は書けなかったんだな、ということも感じたりする。
SNSは便利ではあるし、このブログより確実に多くの人に読んでもらえそうではあるけども。
「いいね」の数を気にせず書けるというのは、実際とても気分が良い。
「メリークリスマス」や「あけましておめでとうございます」を誰に伝えるのかわからないままに書かなければいけない、と思う必要もない。
適切な写真がないと悩む必要もない。
そんなことより今は、地味でも少しずつ書いていくのが自分にとって重要である気がしている。
さて、最近私がとても力をもらった言葉がある。
それは音楽学者の伊東信宏さん(大阪大学大学院文学研究科教授)が昨年出された著書、『東欧音楽夜話』のあとがきに書かれていたことで、私の中に長年悶々と渦巻いていた悩みというのかよくわからない重たいものをすかっと吹き飛ばしてくれるような、とても力をもらえる内容だった。
「現代の世界はますますクリーンに、ますますポリティカリー・コレクトに除菌されてゆき、その内側だけが「世界」だと決めつけられていく。そのクリーンでコレクトな「世界」から排除されたもの、そこでは許されないものは確実に存在するのに、「世界」の中ではそれは不可視化され、忘れ去られる。・・・(中略)音楽の、そして芸術の役割は、こういう「世界」の外側を想起させることではないのか?此処とは違う「異世界」、このシステムとは異なるオルタナティヴ、現在強いられているのとは別の関係のあり方、「貨幣」では説明できない価値、そういうものを想起させることこそ、芸術の役割ではなかったのか。」
コロナ禍では、こうした疑問が以前よりはっきり浮き出て見えてくるような気がする。
にもかかわらず、そうした「異世界」から目を背けようとするかのように見える現実社会。
私が最近気になっている作曲家にドイツのジモン•ルンメル (Simon Rummel) という人がいて、特に「Harmonielehre(和声法)」というアイロニカルなタイトルの大掛かりな作曲家自身の手製オルガンの作品が最も私のお気に入りなのだけど、
(彼のホームページからビデオを見ることができる。http://www.simonrummel.de/videos.html) 昨年春にケルンで行われた現代音楽のプロジェクト、「ON」で発表された彼のパフォーマンスも気に入っている。(上のYouTubeリンク)
ざっと斜め読みしただけなので間違っているかもしれないが、ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェンの精神を実験的な音楽の中に見出せないかというテーマで実施された「ON」(テーマからして、おそらく2020年に開催を予定していたものが2021年にオンラインベースで公開されたと思われる)の企画の一つで、シュトックハウゼンに師事した作曲家のクラレンス・バーロウ(Klarenz Barlow)のMIDIを用いたピアノの為の作品「Variazioni e un pianoforte meccanico」を4人のパフォーマーが演奏(演じて)している。
ベートーヴェンの最後のピアノソナタop.111が、MIDIのプログラムでどんどん変奏されていく。
初めはピアニストが演奏しているが、そのうちMIDIでの演奏が暴走していき、やがてピアニストを追いやってしまう。
プログラミングの変奏が激しくなればなるほど、奏者の人間的な解釈は用を為さなくなる。
MIDIのプログラミングはここでは比喩的な表現であり、非常に複雑な作品の演奏でも似たような状況が起こっているかもしれない。しかし逆に、奏者の解釈が独り歩きしてしまうことが問題になることもある。
昨年のショパンコンクールについて、受賞者の演奏について「ショパンはそんなことを楽譜に指示していない」と審査員の一人が明かしていたインタビューの記事が印象的だった。
大衆が望む音楽、「マス」の声が過度に反映されている社会、そういうことを考えさせられたパフォーマンスだ。
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